てっぺん ありがとうの会
2012年5月21日

この 記念するホームページのオープン日に私は和風ご馳走屋てっぺんで 『第3回ありがとうの会』があり参加してきました!この、ありがとうの会とは従業員が両親にありがとうを伝えると言う会で第1回目は応援団長として第2回は息子が働いてたので親として参加し そして第3回は現在従業員の私の父親に私がありがとうを伝えると言う事になり 恥ずかしながら父親の前でありがとうを伝える事が出来ました!他の方々もご両親に感謝の手紙と言葉で ありがとうを伝えてました。

そして、とうとう私の順番が回ってきました、なかなか日頃は恥ずかしくって ありがとうとは言いにくいのですが始めてですがこんな手紙を書きマイクも使わず大きな声で伝えました。皆さんも勇気をもって 伝えてみてはどうですか?

 

親父へ

「なんや!やぜかな~今さら親父づら、しやがって どうせ親戚とか近所の人に言われたけんやろうが!」こんな罵声を浴びせて やりたい放題やっていた十代の私の事覚えてますか?こんな横着な私は親父と5歳年上のお袋の間に昭和47年3月1日向井家の長男とした生まれました 生まれたばかりの私は未熟児として生まれ そのまま保育器の中に入れられ 命の保証も無い状態で、成長しても何だかの障害も残るかも知れない不安の中でどうにか育ったと聞きました。

そんな生まれ方をしたせいでしょうか、両親は私を愛情いっぱいに育ててくれました。

こないだも 弟の結婚のお食事会 ここ、てっぺんでした時も親父の兄弟が言ってました

お前の親父は自営業でまだ駆け出しで大変な時なのにも関わらず 子供がかわいいのか

長男だからなのか、立派な初節句やら、まだ幼稚園児なのに何十万もする英語の教材や大図鑑などを買い与えるやら、凄かったんだから・・・・って話してくれました。

そして子供の時に覚えているのが小学校や中学校になった時でも、少しの休み時間に遊んでくれたり

夏休みや冬休みの時などは遊園地 運動会の時は店を休みにしての応援など限りなく家族の為に時間を費やしてしてくれました。

そんな溢れるばかりの愛情を受けながら 素直に育てば良かったのでしょうが

私はヤンチャしまくりました。たぶんその時は親父やお袋もかなり

悩ませたと思います 本当にごめんなさい。

でも今だから言える事もあります 私は親父やお袋に不満があって ぐれた訳ではありません 理由はお袋の病気でした。現実を前に私は逃げたい心の弱さと友達や周りの人たちに、お袋が馬鹿にされたくなくて、強い=不良だと思い 強い男になるにはとことん不良になってやると決心したのを覚えています こんな破天荒な人生でしたが、そんな私の全てを理解いつも優しく、そばにいてくれた人が現れました。それが今の嫁です嫁と出会って私は3人の子宝に恵まれました。

そうです 私も親父に なっていたのです。親父になって よく思った事があります。

それは 子供のしつけの時です 私が子供のしつけをする時に叱ったり注意したりしながら、ハッと思います「あっこれ良く親父に言われよった 良く怒られよった」と思うのと同時に「親父ありがとう」って思ってました。

そんな親父ではありますがそれとは逆に仕事人間 とことん仕事に没頭する親父の背中を見てました お袋が倒れたときも、周りの方や職場に迷惑がかかるのが嫌いな親父は「仕事休まんばばいね~」っと言う位でして そのときはさすがに「なんば言いよると!」って怒った事もありましたが そんな仕事人間な馬鹿な所も気がつけば私も親父そっくりになってるみたいです。

そんな矢先に親父 病気になりましたね 病名は大腸癌 でしたね

酒もそんなに飲まず 煙草も飲まず ギャンブルもせず ただただ家族の為に、一生懸命働いて定年まぎわに 癌になるなんて 思ってもみなかったですよね

お医者さんから宣告をうけて少し落ち込んでる親父にとどめを指すように私が言った言葉覚えてますか? それは「癌になって良かったね!」親父は「はぁ~」って顔してましたね だって親父は働く事ばかりで65歳70歳になっても死ぬまで仕事をしようとする人だからです。そんな人生のおくり方しかしなかったはずです でも癌になった時に思ったでしょ 本当はこんな人生じゃなかった まだこんな事したかった あんな場所に行きたかったなどなど 思ったでしょう そうです ただただ後悔だけを残して死んだのかも知れませんでした。

それから親父は変わりましたね 少しですが 前向きになりましたね。摘出手術受けて

転移の恐れもあるのにもかかわらず 旅行やコンサートはたまた飛行機を見に行ったりとしてましたね。術後の再発の恐れも少なくなり 今じゃ ここ てっぺんでも 働けるようにまでになりましたね

親父は実は前の職場からもお誘いがありましたが ここ てっぺんを選びました

親父は20年間そば屋を営み20年間ラーメン屋で働きそこそこの腕もあるのに

てっぺんでは0からのスタートです。なのにニコニコしながら皿洗いをしてます。

今では「炭場担当さね~」と少し自慢げにニコニコ笑顔で話ししてくれます。

そうです 病気になる前より今の方がきらきらしていて生きている日々を過ごしています。

てっぺんさん ならびに従業員さん お願いがあります

たぶん 親父はてっぺんで働くのが最後になると思います

最幸の職場で皆さんと共に汗をかき 60歳を過ぎてもワクワクするような

親父にしてやってください。

そして 親父! ずっとずっと 心配かけてすいませんでした ごめんなさい。

そして 親父! 自分の人生 楽しくおかしく 生きてください。

そして 親父! 少しお金を貸して下さい(笑)

そして 親父! 最後に一言 お袋と出逢ってくれて ありがとう

              生んでくれて ありがとう!

              育ててくれて ありがとう!

              いつも いつも ありがとう!

              これからも ありがとう!

                    平成24年5月21日息子より       ありがとうの会より